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初代沖永良部島の王☆世之主の墓 【沖永良部島】

2019年5月15日

 

The tomb of Yononushi who was first king in Okinoerabujima-island (Remote-island near Okinawa). Please click translation function on the upper right side of the screen.

 

沖永良部島の歴史を知る上で世之主(よのぬし)の存在を抜きに語ることはできません。出生や沖永良部島の初代王になった経緯を詳しく知りたいと思って調べてみました。ただし、村に伝わる昔話と一般的に言い伝えられている話には食い違いがあるため必ずしも以下の話が正しいとは限りません。

 

 

世之主の誕生

沖縄がかつて北山、中山、南山の3国に分かれている時代がありました。その時に沖永良部島のノロが奉公(ほうこう)で北山【現在の沖縄県今帰仁(なきじん)村】にやってきました。とても美しかったノロは北山の王様に見初められ、北山王の子をお腹に授かりました。その後ノロは沖永良部島に戻り、真松千代(ままちぢよ)を生みました(後の世之主)。ノロは周囲にも本人にも出生の秘密を明かすことなく初めは育てていましたが、やがて7歳で真実を知った真松千代は父である北山王を訪ねます。北山王は真松千代を実子であると認めたましたが妾(めかけ)の子である真松千代と本妻の子である嫡子(ちゃくし)との間に争いになることを恐れました。北山王はその場では真松千代には何も与えずに、10年後に沖永良部島の土地と世之主の名を与えました。こうして初代沖永良部王が誕生しました。

 

世之主としての一生

世之主は沖永良部島を納めるようになってから中山王の娘を嫁にもらいました。四天王と呼ばれた優秀な家臣【建築家の後蘭(ごらん) 孫八(まごはち)、学者の屋者(やじゃ) 真三郎(まさはる)、世之主が生まれた知名を治めていた(もしくは母親の親戚?の)豪族の西目 国内丘衛佐、力自慢の国頭(くにがみ) 弥太郎(よたろう)】に支えられ、沖永良部島民に慕われるとてもいい王様でした。沖永良部島はその頃、とても平和な島だったそうです。

 

しかし平和な時代はそう長くは続かず、世之主の父である北山王が治める北山王国は世之主の妻の父親が治める中山王国によって滅ぼされます。自分も(沖永良部の島民も)殺されるかもしれないと怯(おび)える日々を送る世之主の元に中山王国から船がやってきました。世之主は四天王を迎えに行かせ、戦いになるようであれば赤い旗を振り、親善であれば白い旗を振るように命じます。

この中山王国からやってきた船は中山王が自分のかわいい娘が嫁いでいる沖永良部には和睦(わぼく)を呼びかける親善使を載せた船でした。四天王はたいそうな接待を受けてお酒を飲んで酔っ払い間違って赤い旗を振ってしまいます。それを見た世之主は妻と子供と自殺します。(酔いつぶれて旗を振らなかったので四天王は殺されたと思った世之主が自殺した説もあります)

やがて世之主の元に戻った四天王は自らの過ちを悔い自害しました。沖永良部の島民たちは嘆き悲しみ立派な墓を建てて供養しました。

 

世之主の墓

世之主の墓の入り口は石門で囲まれています。トゥール墓といって琉球形式の墓で女性の子宮をイメージしたものだと言われています。

世之主の墓 沖永良部島
世之主の墓 沖永良部島

二つ目の門の奥に納骨されているお墓があります。

世之主の墓 沖永良部島
世之主の墓 沖永良部島
世之主の墓 沖永良部島
世之主の墓 沖永良部島

世之主の他に一緒に自害した妻と子供、それに世之主に仕えた四天王(後蘭孫八、屋者真三郎、西目国内兵衛、国頭弥太郎)が葬られています。

鹿児島県指定文化財ですが、以前はあまり手入れはされず、草が生え放題でジャングル化していました。それが逆に風景に馴染んで独特の雰囲気を醸し出していたのですが最近整備されはじめましたのでどうなるか楽しみです。

 

ホームページ

 

アクセス

名前:世之主の墓
住所:鹿児島県大島郡和泊町内城

和泊港から 車で約15分

 

2019年5月15日

Posted by hana